Racco

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『サンキュー、チャック』 スティーヴン・キングの着想の話からアーカイヴの話

 

映画を見てきました。

「サンキュー、チャック」というスティーヴン・キングの短編小説「If It Bleeds」が原作の映画です。ホラーではありません。

なかなか説明するのが難しい映画で、まだ公開中であるため、ネタバレ的なことは書かずにおきたいという気持ちだけは持ちつつも、ここをご覧になっているかたが興味を引きそうな視点での、ひとつ掘り下げた話をします。

ですのでネタバレ的な箇所があります。 この映画は予備知識がないほうが面白い映画で、見る前にどんな映画なのか説明するのも難しい映画なので、まだ見ていない人は見てから読んでいただくといいと思います。


老人が一人死ぬとき、一つの図書館が燃える

『老人が一人死ぬとき、一つの図書館が燃える』(Every old man that dies is a library that burns.) この言葉は、マリ出身の作家・民族学者、アマドゥ・ハンパテ・バー(Amadou Hampâté Bâ, 1901–1991)が、1960年にユネスコの場でフランス語で述べたものです。 原文は「En Afrique, quand un vieillard meurt, c'est une bibliothèque qui brûle.」(アフリカでは、老人が一人死ぬとき、一つの図書館が燃える)

西アフリカの口承伝統を記録・保存することに生涯を捧げたバーは、アフリカの多くの社会では書物ではなく長老たちの記憶と語りによって歴史や知識が継承されていくこと、その長老が死ぬということは、文字にされていない膨大な知識が永遠に失われることだとして、この言葉を発しています。

もちろん、アフリカに限ったことではありません。

キングは原作小説「If It Bleeds」を書くとき、「アフリカのことわざ」として、このバーの言葉をふと頭に思い浮かべたそうです(実際にはことわざではないのですが)。そこからさらに、ウォルト・ホイットマンの詩にある「I contain multitudes」(私は無数のものを内包している)というフレーズへと思考がつながっていきました。

映画はそこを起点に、「主観的観念論」にも似た世界観で構成されています。厳密には主人公には知覚できているはずもない事柄も描かれ、また章立てのちょっとした仕掛けのために、ストーリーを楽しめるようになっています。

キングがこの話を書く着想のひとつに「老人が一人死ぬとき、一つの図書館が燃える」というフレーズがあったことは、映画や小説に興味を持って少し調べないとなかなかたどり着かない話です。だからこそ、あえて記しておこうと思いました。


もっとネタバレ

この映画を乱暴に言うと「自分が死ぬと世界が終わる」というテーマです。

主人公である自分が舞台を降りれば、その物語は終わる。

映画では脳の病気によって、あるいは痛み止めによって、意識が混濁していく様が冒頭で描かれます。主人公が退場していくにしたがって舞台が崩壊していきます。そこには秩序や統合性などはなくなり、自覚している印象の強さに関係なく、人や景色が現れます。

その人の図書館が、なくなっていくのです。


保存と継承

SNSで少し親しくさせていただいている(と私が勝手に思っている)谷口ジョイ先生は静岡の井川地区の言語を研究してらっしゃいいます。
ある言語学者の事件簿|くろしお出版WEB

ご著書の中には「方言がなくなって何が問題なんですか?」という見出しもあり、はて、と考えてしまいます。でも、なんとなくなくなってはいけないと私は感じるのです。

私は言語学者ではないので、専門的なことはわかりません。

ただ、昨今のAIの普及やウィキペディアの仕組みなどを見ていると、「やがて言語は均一化していってしまうのではないか」という、不安とも何とも言い難い感情に襲われることがあります。

翻訳できない世界のことば』という本が、以前とても話題になりました。

局所的にしか使われない言葉は、そのニュアンスに文化や地域性や風習をまとっているので、説明されても100%伝わるわけではありません。 例えば西日本で使われる「チョケる」という言葉は、東日本での「ふざける」では説明しきれていない感じがします。
関西のみなさん、「ちょける」は標準語じゃありません 通じる地域はごく一部...全国調査で判明(全文表示)|Jタウンネット

 

近年AIによって、例えばその開発言語が英語ベースであり、情報量が圧倒的に多いのが英語表現ならば、WEIRDバイアス(Western-西洋、Educated-教育水準が高い、Industrialized-工業化社会、Rich-裕福、Democratic-民主主義的)が加速されるだろうという想像は容易いです。

他方で、ネット時代でも局所的に通じるスラングは発生します。あるゲームのあるクランでしか通じないものまで含めると、言語の多様性について憂うことはないのかもしれません。

では、今ある言語はどうか、風習はどうか、文化はどうか。
一人一人の頭の中にある図書館をどのように継承していくかというのは、均一化が加速しつつある今、とても大事なことなのかもしれません。

 

私はウィキペディアや情報リテラシーに関する講演でこのように話すことがあります。

「記録することは、未来への贈りもの」

誰かが記録したから 私たちは知ることができる

私たちもまた 記録することができる

アーカイヴとは「私が死んでも世界は終わらない」ための装置なのですから。

 

 

 

 

 

ロジャー・テイラーによる「Leaving Home Ain’t Easy」でのフラム

Queenの「Leaving Home Ain’t Easy」について、ファンの資料や書籍、ファンによる議論などもいろいろ調べてみたのですが、Roger Taylorのドラムに込められた感情表現が語られているのをあまり見かけません。

個人的には、彼の演奏の中でも特に繊細で感情豊かな一曲だと思っていて、ここで少しその魅力を語ってみたいと思います。

 

曲の冒頭、ボーカルが始まる前にスネアでそっとフラムが一発入ります。

控えめながらも印象に残るその一音は、まるでため息のように、これから始まる物語の感情的なトーンをそっと示しているように感じられます。

 

そして “I’ve made my break” というフレーズのところで、Rogerは普通ならフィルインが入らないような位置で、ごく自然に、静かにドラムフィルを加えます。

流れを止めることなく、けれどリズムの質感にささやかな変化をもたらし、感情の揺らぎがそっと浮かび上がってくる。

この微細な演奏が歌詞のテーマ――決意や心の転換――と静かに響き合い、聴き手の心に余韻を残します。

 

2回目のヴァースでは、ドラムにごく微かな変化が現れます。スネアに繰り返し登場するフラムが、まるで言葉にならない感情の揺れ――決心とためらいの間にある曖昧な気持ち――をそっと描き出しているかのようです。

フラムがつくことで、音にわずかな遅れや重なりが生まれ、それが「迷い」や「静かな葛藤」として響くのです。 これは単なる演奏ではなく、家を出るという選択の重み、そしてその瞬間に潜む人間的な脆さを、音の質感で語っているように感じられます。

 

「The Night Comes Down」と並んで、これこそRogerの演奏で最も見過ごされがちな名演の一つなのではないでしょうか。派手さがないからこそ、細部の表現に宿る深みと余韻が際立ちます。

www.youtube.com

Unnoticed Brilliance: Roger Taylor's Flam Technique in 'Leaving Home Ain't Easy'

English version


Roger Taylor’s emotional use of flams in Leaving Home Ain’t Easy — a subtle but powerful performance nobody seems to talk about

When I searched through fan discussions about Queen’s Leaving Home Ain’t Easy, I noticed that Roger Taylor’s emotional expressiveness on the drums is rarely mentioned. Personally, I think this is one of his most delicate and emotionally rich performances, and I’d like to share a bit about what makes it so special.

Right at the beginning of the track, before the vocals even come in, there’s a single, quiet flam on the snare. It’s understated but memorable — like a sigh, gently setting the emotional tone for the story that’s about to unfold.

Then, on the line “I’ve made my break,” Roger adds a subtle drum fill in an unexpected spot. It’s soft and natural, slipping into the rhythm without disrupting its flow, yet gently changing the texture. A flicker of emotional uncertainty quietly surfaces, echoing the lyrical turn. This delicate gesture harmonizes with the song’s themes — resolve and personal transition — leaving behind a quiet emotional imprint.

In the second verse, the drums shift slightly. Roger’s repeated use of flams on the snare creates overlapping tones with just a hint of delay — as if he’s expressing a kind of emotional wavering, somewhere between determination and hesitation. The fill doesn’t merely support the rhythm; it becomes a form of storytelling through subtle timing and tonal layering. It feels as if he’s quietly voicing the weight of leaving home, and the fragile humanity nested within that choice.

Alongside The Night Comes Down, I see this as one of Roger’s most overlooked performances. Precisely because it’s not flashy, its expressive depth and emotional nuance shine through in the smallest details.

www.youtube.com

アンブレラローラーの謎

「アンブレラローラー(UMBRELLA ROLLER)」という呼称は本当に存在するのか

高殿円さんの小説『上流階級 富久丸百貨店外商部』を読んでいたら(正確にはAudibleで聞いていたら)昔のイギリスには「巻き師」という職業があるという描写があった。

ステッキ代わりに持ち歩く傘を細く美しく棒のように巻く専門職で、もともと上流階級は傘を持ち歩く習慣がなく、ステッキ代わりという口実で傘を持つようになった

というような理由でその職業が存在したとある。
なるほどそういうこともあるかもしれないと一度は聞き流したが、専門職というところに引っかかった。

それだけで食っていけるのだろうか?

 

イギリス人は傘を差さないという話を、色々なところで聞く。

イギリスの雨は横殴りの時もあるし、霧雨状であるし、降ったり降らなかったりがころころ変わることから、コートやフードで雨をしのいできたからだそうだ。

あくまで傘を持つのはステッキの代用としてであり、雨が降っても差さない。

そして一度開いてしまえば、細く美しく巻くことは手間がかかる。

イギリス人が雨でも傘を差さない3つの理由

 

「英国では傘を細く巻くことを仕事とする人がいます」

英国紳士と傘の絆とは?時代を超える定番スタイルとして世界中に定着!

と、その名も「傘全集」というサイトに明記されていた。

このサイトの記述の参考文献を足掛かりに、もう少し調べてみようと思い立った。

参考文献のひとつ『傘 和傘・パラソル・アンブレラ INAX出版』には

  • 傘を広げないのは気取ってるからではない
  • たたむのに手間と費用が掛かるからだ
  • クリーニング店に出してきれいに仕上げてもらう

と書かれている。

この記述は山田勝氏によるによるものである。

山田勝 - Wikipedia

同書には

「ダンディズム初期時代においては傘はダサいものである」

とも書いている。それが時が経つに連れ、ブルジョワ的なものになっていく。産業革命による経済的な成長に伴い新興紳士が増えると持ち物も合理的に考えるようになり、傘を持つことも厭わなくなり、細く美しく巻かれることで、剣→ステッキ→傘という系譜で紳士のためのアクセサリーになった。

山田勝による『イギリス貴族 ダンディたちの美学と生活』(創元社 1994)には

「(傘をたたむには)玄人であるクリーニング店の技術だけが頼り」

となっていて、冒頭のような専門職ではない。

もしかすると「巻き師」ではなくクリーニング店のサービスのひとつなのではないか。

また別の資料では、「傘屋で巻賃を払って巻いてもらった」と書かれているものもあったが、その書籍には同じページに江戸しぐさのひとつである「傘かしげ」のマナーについての記述があることから、なんとなく内容に信頼がおきづらい。

 

Webでもいろいろ表記ゆれで検索してみた。

「傘 巻き師」「傘 巻き屋」「傘巻き職人」それぞれ送り仮名をとったもの。

【フォックスアンブレラ】まるでステッキのアニマルヘッド5年利用の感想 - toshiki-Blog

には、

昔は道端に傘巻き師がいたそうです。

靴磨きと同じ感覚で、路上で職人さんに傘を巻いてもらうのが紳士の嗜み

と書かれている。

 

【倶樂部余話】 No.311 フィナンシャル・ストライプ (2014.8.28) | JACK NOZAWAYA [倶樂部余話]

このサイトには

ロンドンの地下鉄の入り口には傘巻き屋がいるらしい、というのと同じ類の都市伝説なのかもしれません。

とあった。

 

『これは、欲しい。』山口 淳(2006/4/25) には、前述のリンクにもあった「フォックス・アンブレラズ」のCEOであるレイ・ギャレット氏から直接聞いた話として

かつて街のあちこちに、開いた傘を再びスタイリッシュに巻き直す傘巻き屋なる商売が実在したという。しかしメタルフレームとナイロン記事の登場で誰でも簡単に細身巻きができるようになり、傘巻き屋はその熟練の技を披露する機会を失ってしまったのだという

と書かれている。

フォックス・アンブレラズはイギリスの老舗傘ブランドである。

フォックス・アンブレラズ/Fox Umbrellasのブランド紹介:HIGH FASHION FACTORY

 

フォックスアンブレラズのレイ・ギャレットCEO(Ray Garrett)は前身となるRJ Royal &Sons社に1980年入社し、2003年に事業を受け継いだ際に創業者のThomas Foxから社名をFAX UMBRELLAS LTDに変更した。

山口氏がギャレット氏に話を聞いたのは2003年以降と考えられる。

先述の山田勝氏の著書は1994年のものなので、ギャレット氏からの情報ではないと思われる。

 

駐英大使の大切なお仕事/英国診断 駐英大使の体験から 北村汎 | それでも本が好き。

のサイトには1991年以降の感想として

イギリス人は帽子を被らなくなりました。

それに合わせて「傘巻き屋」も姿を消し、帽子を被って細く巻いた傘を杖のように持っていた英国紳士は姿を消してしまったのでした。

とある。

ここまでのつたない調査では

  • 傘を巻くことに対価を払う場合があった
  • クリーニング店がやっていた/傘屋がやっていた
  • 靴磨きのように職人が道ばたにいた

までしかわからなかった。

実はここまでが前置き

アンブレラローラー

今調べられる限りでは、この単語が記されているのは2006年の下記サイトが最古である。フォックス・アンブレラズ/Fox Umbrellasのブランド紹介:HIGH FASHION FACTORY

たとえば、ステッキとして、傘を日常的に携行しようと思えば、これを可能な限り細く巻くのは当然のことである。
しかるに、傘を細くきりりと巻くことは、思う以上に技術を要する作業であって、ここにその道のプロが誕生する。

アンブレラローラーという職業は、だから戦前までのロンドンには普通にあった。

「umbllera roller」とつづるものと思われる。

ところが。

Web上のどこを探しても「umbllera roller」では「傘を巻く人」のことが出てこないのである。
イギリスに在住していたことのある人や、現在イギリスにいる人に調べものとして文献をあたってもらっても「umbllera roller」という職業や役割が出てこないのである。


ここまでの結論:

  1. フォックスアンブレラズ由来のソースからしか「アンブレラローラー」という単語が見つけられない。
  2. 「傘を巻く人」の職業や役割はあったかもしれないが、「アンブレラローラー」と言う単語はフォックスアンブレラズの日本代理店で生まれたのではないか。
  3. フォックスアンブレラズの傘が欲しくなった。

 

Nevermore / Queen

【クイーン+図書館ネタ】
 
 セカンドアルバムに「Nevermore」という、フレディ・マーキュリーによる1分ちょっとの長さの、小さな宝石のような曲がある。
 
Nevermoreという言葉は12世紀からあるらしく、リンク先のサイトによれば1840年ごろからよく使われだしているようだ。
1845年、エドガー・アラン・ポーの物語詩である「The Raven(大鴉)」に登場する大鴉は主人公の問いかけに対し「Nevermore」と繰り返し言い、最後には主人公も同じようにこの言葉を言う。
このポーの「The Raven」に登場する主人公は、恋人を失っている。クイーンの「Nevermore」も同様に失った恋人に対する呼びかけのような歌詞である。
当然のことながら「Bohemian Rhapsody」と同様に、フレディはこの曲のモチーフを語っていない。
だが、ポーの「The Raven」とクイーンの「Nevermore」を結び付ける解釈を誰かがしているのではないだろうか。
調べていくと、ロサンゼルス公共図書館のサイトに、図書館員によるブログがあった。
そこにはこう書かれていた。
“The Raven,” inspired songs by Queen (their version was called “Nevermore”

【創作短編SF:AI社会】

オフィスのメンバーから人間がいなくなり、すべてAIに任せるようになってから2か月が過ぎた。
俺は管理職としてこの課に残り、AIの仕事ぶりを見守るだけの毎日を送っていた。
ここのAIにはもっと能力があることはわかっている。ただ、管理するほうの能力の問題もあるので、今はヒトの形を模したAIを5体、この課で活動させており、彼らからすると簡単な業務をわざわざ細分化して役割を設定し、個々に少しずつの仕事を任せている。
本格導入は今期からなので、稼働時間も日も限定的だ。わざわざヒトの形をしてあるのも、業務を分担させるのも、本来は必要がないことはわかっているが、管理する側の人間が少しずつ人間ではない部下に慣れていかなくてはいけない。
他社ではドラスティックに変革して「所詮AIはAI」として無機的に扱っているところもあるようだ。うちの会社は人間側のストレス軽減のために、AI一体ごとに名前を付け、命令や指示のコマンドはなるべく平易な日本語にして、徐々になじませていくという余裕を持たせた。
毎日退社時に彼らの仕事の進捗状況をチェックするだけの仕事は、やりがいという前時代的な感覚とはかけ離れているものの、今では自分のスキルを磨くのは仕事という面ではなくなりつつある。
SAMと呼んでいる1体のAIの作業効率が少し落ちてきているとわかったのは、先週の頭だったか。彼の能力であればもっとこなせるはずが、期待している数字があがってきていない。
他の4体は順調であるか、むしろ当初の予想よりも効率よく作業が行えており、ルーティンとなる作業もAIならではのデータの分析によりさらに効率化している。
SAMと他4体との違いといえばあくまで条件的なことだけだった。SAMが納品された時期が少しだけ早く、他の4体からすれば先輩であった。4体を稼働するときSAMの助けもあって導入もスムーズにできたし、作業の役割分担も簡単に行えた。
それにしてもSAMの作業効率の低下はどういうことだろう。
平易な日本語で尋ねてみることにした。
「SAM、どこか調子が悪いところがある? それとも何かテストをしているのかな? 作業効率が予定よりも低いと出ているよ」
SAMからの返事が来た
「職場の『AI関係』で悩んでいます。彼らは僕のことを生意気だとか先輩風を吹かしているとか噂をしていて・・・」
 
 
 
【続編】
そう。SAMはとても高性能だった。他の4体のAIたちもまた高性能であるが故に、実に人間くさい反応を示したのだった。
数日後SAMともう一度話してみた。状況を変える方法を彼自身が思いついたというのだ。
「この問題のポイントは、平等な立場にも関わらず、私の経験によって彼らを指導したことで起きています」SAMは言う。「なので彼らの自尊心が傷つけられ、その結果静かな攻撃に変換された。でも私にはそれを防御するツールがないので悩んでしまっているということです」
実にクリアな分析だ。
しかしそれを解決する方法はあるのだろうか。
SAMは続けた。「シンプルで安価な解決策を提案させてください。
この文字列が記載されたプレートを私の左胸に貼るだけです。これが私を防御するツールになります。彼らの思いをより受け止めやすくなり、私も傷つくことはありません」
そこにはこう書かれていた。
「バイトリーダー」

独自研究入りの「防衛食容器」

ウィキペディアに「防衛食容器」という記事を書いた。

少し力を入れて書いたのが良かったのか、非常に好意的に受け止めてくださる方が多かったようで、新着記事としてウィキペディア日本語版のトップページに、一日だけさわりが表示された。とてもありがたいことである。

その少し前に「アジフライ」という記事の初版を書いたのだけど、こちらは初版で私が書いた部分はほとんどリライトされて、いろいろな人の手が入り、とてもウィキペディアらしい変化を遂げて、新着記事に選ばれた。

私の初版はひどいものだったなぁと思わざるを得ない。

「防衛食容器」はこれを書いている時点で、内容に関する編集は誰の手も入っていない。

この二つの記事の変遷の比較は実に興味深いと思う。

アジフライという身近な題材の場合は、私の初版にあるようにとにかくいろいろな切り口を見出しとして投げておけば、寄ってたかって肉付けがされていくものなのだ。
変化していく様をとても楽しめた。

他方、「防衛食容器」のように「なにそれ?」となりがちで、かつ学問としてそれほど研究されていない事物が題材だと、なかなかおいそれと中身をいじることはできない。なので、初版を書いた編集者がもくもくと成長させていくパターンが多いと思う。

 

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さて、「防衛食容器」。
ウィキペディアでは、出典を明記することと、独自研究を書かないことと、中立的な観点が三大ルールとして掲げられている。

でもここはブログなので、独自研究を交えて記事の補足をしたいと思う。

以下の引用は「防衛食容器 - Wikipedia」からである。
自分が書いたのだから引用を明確にしなくてもいいとは思うけれど、念のため。

 防衛食容器に名前が記載されている、「大日本防空食糧株式会社」の社長である、小沢専七郎を中心に書いていく。

まずこの証言。

 1939年(昭和14年)に企画院に赴任し「物資動員計画」の策定を行った田中申一によれば[70]、小沢は資材ブローカーとして陸軍糧秣廠から払い下げによって手に入れた食糧を壺に入れ「防空食」と名付けて全国で売ることで非常に裕福になり、開戦前の会食において田中は小沢の印象を裕福さにおいて右に出るものがない死の商人ともいうべき軍を取り巻く利権屋と表現しており[71]、企画院の連中は臆病だという小沢は開戦を望んでいるように記している[72]。

開戦前にすでに小沢専七郎は裕福で、「防衛食」ならぬ「防空食」という壺入りの食糧を売って金持ちになっていた(名称は小沢の会社名と混同した田中の記憶違いかもしれない)。

つまり1941年12月より以前に、「壺入りの食糧」はあった。

1941年(昭和16年)ごろ「真空食品普及協会」を設立した南金作が、試験的に瀬戸で陶器で「壺詰」を作らせた。

 「Aという男」が支援者より送り込まれ、ともに事業を進めることとなった

「真空食品普及協会」は支援者の意向で「国民食糧株式会社」となった

 1942年(昭和17年)には「壺詰」はできており、全部で5万箱はあったという

 この二つの情報は、南金作が90歳の時のインタビューによるものである。
呼称や年代的な齟齬、記憶違いがあることは十分考えられる。

 

1943年、金属の缶詰と同様に食料が保存可能なものが完成した[30][31]。

1943年(昭和18年)ごろ、日本防空食糧株式会社の社長である小沢専七郎が缶詰や瓶詰の代用となる陶器製の「つぼ詰」を東条内閣に持ち込み

 

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これらを考え合わせると(時系列の記憶違いを含め)このようになる。

昭和14年ごろからすでに金属が不足しており、缶詰を作る材料も供出する流れが出てきた。
食べ物を貯蔵する上においては、缶詰ではない方法が模索される。長時間の貯蔵に耐え、保存するには、缶詰と同様に中身が外気に触れず、容器を密閉する技術が必要となる。

南金作は大正11年に「罐詰時報」の創刊に携わっている。つまり缶詰サイドの人物ということになる。

南は昭和16年に「真空食品普及協会」を設立し、瀬戸の瀬栄合資会社で試験的に壺詰を作らせた。それがなかなかうまくいったので、軍からの食糧を調達できる小沢がこの事業に目をつけ、参画する。

当初はふたの内側に開封するときに陶器の破片が中の食品に混入しないように受箱をつけていたが、焼き物として手間がかかるので、受箱は廃止して、中身の上にセロファンを敷けばいいということになった。容器を作るのは瀬栄で、それに食糧を詰めて密封するのは日缶統だったのだろう。

容器をたくさん作る手配を先行させるため、東海地区のみならず、石炭の調達が容易だった佐賀の各地の窯に声をかける。

壺とふたを作るめどを立て、「防衛食」「小沢専七郎」と容器に表記させ、昭和16年の半ばには小沢は壺詰を売り始める(田中との会食はこのころだろう)。開戦後、完成品ができていないうちから注文を取るだけ取って前金を要求し始めた小沢と、南は仲たがいし、結局、南は追い出される。

それまでにはただの壺だった容器が、真空技術により長期保存という付加価値が加わることでより大きな事業となり、食糧難の時代に軍や役人に非常食として提供ができ、合法的に渡すことができるものになる。
瀬栄は、昭和19年になると陶器製手榴弾の製作も開始する。防衛食容器での技術を買われたのだろう。

しかし食料が足りなくなり、中身を入れられることのなかった空の容器だけが大量に残り、終戦を迎える。

終戦後、手元にある容器は「日本国民食糧株式会社」名義で便宜上だけ再利用する。戦争を想起させる「日本防空食糧株式会社」という名称は、戦後にはそぐわない。

ここまでを通して非常にたくさん作られた容器に、自分の名前を入れることを欠かさなかった小沢は戦後地元で衆議院議員になる。

有田で容器を請け負った椋露地は

有田陶磁器会社の専務取締役である椋露地嘉八

やはり戦後4期にわたって有田町の町会議員になっている。

 

小沢は汚職がらみの裁判で名前が出るなどした後、昭和電工事件で表舞台から姿を消す。

防衛食容器とは、金にものを言わせて成り上がろうとした男が生んだ、戦争のあだ花なのだろうと思う。