Racco

ウィキペディアのこととか。

独自研究入りの「防衛食容器」

ウィキペディアに「防衛食容器」という記事を書いた。

少し力を入れて書いたのが良かったのか、非常に好意的に受け止めてくださる方が多かったようで、新着記事としてウィキペディア日本語版のトップページに、一日だけさわりが表示された。とてもありがたいことである。

その少し前に「アジフライ」という記事の初版を書いたのだけど、こちらは初版で私が書いた部分はほとんどリライトされて、いろいろな人の手が入り、とてもウィキペディアらしい変化を遂げて、新着記事に選ばれた。

私の初版はひどいものだったなぁと思わざるを得ない。

「防衛食容器」はこれを書いている時点で、内容に関する編集は誰の手も入っていない。

この二つの記事の変遷の比較は実に興味深いと思う。

アジフライという身近な題材の場合は、私の初版にあるようにとにかくいろいろな切り口を見出しとして投げておけば、寄ってたかって肉付けがされていくものなのだ。
変化していく様をとても楽しめた。

他方、「防衛食容器」のように「なにそれ?」となりがちで、かつ学問としてそれほど研究されていない事物が題材だと、なかなかおいそれと中身をいじることはできない。なので、初版を書いた編集者がもくもくと成長させていくパターンが多いと思う。

 

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さて、「防衛食容器」。
ウィキペディアでは、出典を明記することと、独自研究を書かないことと、中立的な観点が三大ルールとして掲げられている。

でもここはブログなので、独自研究を交えて記事の補足をしたいと思う。

以下の引用は「防衛食容器 - Wikipedia」からである。
自分が書いたのだから引用を明確にしなくてもいいとは思うけれど、念のため。

 防衛食容器に名前が記載されている、「大日本防空食糧株式会社」の社長である、小沢専七郎を中心に書いていく。

まずこの証言。

 1939年(昭和14年)に企画院に赴任し「物資動員計画」の策定を行った田中申一によれば[70]、小沢は資材ブローカーとして陸軍糧秣廠から払い下げによって手に入れた食糧を壺に入れ「防空食」と名付けて全国で売ることで非常に裕福になり、開戦前の会食において田中は小沢の印象を裕福さにおいて右に出るものがない死の商人ともいうべき軍を取り巻く利権屋と表現しており[71]、企画院の連中は臆病だという小沢は開戦を望んでいるように記している[72]。

開戦前にすでに小沢専七郎は裕福で、「防衛食」ならぬ「防空食」という壺入りの食糧を売って金持ちになっていた(名称は小沢の会社名と混同した田中の記憶違いかもしれない)。

つまり1941年12月より以前に、「壺入りの食糧」はあった。

1941年(昭和16年)ごろ「真空食品普及協会」を設立した南金作が、試験的に瀬戸で陶器で「壺詰」を作らせた。

 「Aという男」が支援者より送り込まれ、ともに事業を進めることとなった

「真空食品普及協会」は支援者の意向で「国民食糧株式会社」となった

 1942年(昭和17年)には「壺詰」はできており、全部で5万箱はあったという

 この二つの情報は、南金作が90歳の時のインタビューによるものである。
呼称や年代的な齟齬、記憶違いがあることは十分考えられる。

 

1943年、金属の缶詰と同様に食料が保存可能なものが完成した[30][31]。

1943年(昭和18年)ごろ、日本防空食糧株式会社の社長である小沢専七郎が缶詰や瓶詰の代用となる陶器製の「つぼ詰」を東条内閣に持ち込み

 

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これらを考え合わせると(時系列の記憶違いを含め)このようになる。

昭和14年ごろからすでに金属が不足しており、缶詰を作る材料も供出する流れが出てきた。
食べ物を貯蔵する上においては、缶詰ではない方法が模索される。長時間の貯蔵に耐え、保存するには、缶詰と同様に中身が外気に触れず、容器を密閉する技術が必要となる。

南金作は大正11年に「罐詰時報」の創刊に携わっている。つまり缶詰サイドの人物ということになる。

南は昭和16年に「真空食品普及協会」を設立し、瀬戸の瀬栄合資会社で試験的に壺詰を作らせた。それがなかなかうまくいったので、軍からの食糧を調達できる小沢がこの事業に目をつけ、参画する。

当初はふたの内側に開封するときに陶器の破片が中の食品に混入しないように受箱をつけていたが、焼き物として手間がかかるので、受箱は廃止して、中身の上にセロファンを敷けばいいということになった。容器を作るのは瀬栄で、それに食糧を詰めて密封するのは日缶統だったのだろう。

容器をたくさん作る手配を先行させるため、東海地区のみならず、石炭の調達が容易だった佐賀の各地の窯に声をかける。

壺とふたを作るめどを立て、「防衛食」「小沢専七郎」と容器に表記させ、昭和16年の半ばには小沢は壺詰を売り始める(田中との会食はこのころだろう)。開戦後、完成品ができていないうちから注文を取るだけ取って前金を要求し始めた小沢と、南は仲たがいし、結局、南は追い出される。

それまでにはただの壺だった容器が、真空技術により長期保存という付加価値が加わることでより大きな事業となり、食糧難の時代に軍や役人に非常食として提供ができ、合法的に渡すことができるものになる。
瀬栄は、昭和19年になると陶器製手榴弾の製作も開始する。防衛食容器での技術を買われたのだろう。

しかし食料が足りなくなり、中身を入れられることのなかった空の容器だけが大量に残り、終戦を迎える。

終戦後、手元にある容器は「日本国民食糧株式会社」名義で便宜上だけ再利用する。戦争を想起させる「日本防空食糧株式会社」という名称は、戦後にはそぐわない。

ここまでを通して非常にたくさん作られた容器に、自分の名前を入れることを欠かさなかった小沢は戦後地元で衆議院議員になる。

有田で容器を請け負った椋露地は

有田陶磁器会社の専務取締役である椋露地嘉八

やはり戦後4期にわたって有田町の町会議員になっている。

 

小沢は汚職がらみの裁判で名前が出るなどした後、昭和電工事件で表舞台から姿を消す。

防衛食容器とは、金にものを言わせて成り上がろうとした男が生んだ、戦争のあだ花なのだろうと思う。