映画を見てから読んでくださるほうが良いと思います。
ネタバレを多く含みます。
追記:これを書いていた時点で知られていなかった事実が判明したため、2019年1月11日に訂正記事を書きました。併せてお読みください。
映画『ボヘミアン・ラプソディ』の評価を訂正します。 - Racco
- CBSからのソロのオファー
- Another One Bites The Dust
- Hot Space
- I Want To Break Free
- Under Pressure
- Who Wants Live Forever
- Mr. Bad Guy / I Was Born To Love You
- Live Aid
CBSからのソロのオファー
いよいよ時系列がややこしくなる。ポール・プレンターがジョン・リードに「CBSからフレディにソロの話が来ている」と伝えるシーン。
1978年1月にジョン・リードとクイーンのマネージメント契約は解消された。フレディのロールスロイスの中での契約解消は史実として伝えられていることと同一。ただし映画のようなやりとりがあったかどうかは不明。
ジョン・ディーコンが中心となってマネージメント周りの再考がなされ、1978年の初頭にジム・ビーチとバンドでクイーン・プロダクションを設立している。
「We Will Rock You」の発表後すぐにジム・ビーチと離れた、という部分では流れとして合致しているが、実際には1977年のことであり、ロジャー・テイラーがソロ・アルバムをリリースしたのは1981年であるので、ソロ活動についてフレディがオファーを受けることについての反応から映画上では1981年以降のエピソードとなるはずである。
ともかく映画ではここでフレディへのソロ・アルバムのオファーの話があり、今後のグループとしての活動に影を落とすという流れになっている。
Another One Bites The Dust
「Another One Bites The Dust」はアルバム『The Game』(1980年リリース)に収録されている曲で、ジョン・ディーコン作曲。
1980年8月にシングル・カットされ、全米1位を獲得した。マイケル・ジャクソンがシングル・カットを勧めたとも伝えられている。
Another One Bites the Dust - Wikipedia
訳詞:http://www5f.biglobe.ne.jp/~lerxst21/queen/game.html#bitedust
映画ではディスコっぽい曲調に他のメンバーが難色を見せているように描かれているが、前作アルバムの『Jazz』にはロジャー作の「Fun It」というディスコ調の曲が収録されていることから、さほど抵抗はなかったと想像できる。むしろ他のメンバーが作ってきた曲の素材を(自分自身の好みとは切り離して)どう生かしていくかに注力されてき始めたのがこの時期である。
この曲のシンセサイザーのように聞こえる音は、実際にはピアノやギターなどの逆回転音である。
また、映画ではフレディとロジャーがケンカをしているが、実際にはブライアンとロジャーのケンカのほうが多かったようである。なだめる役がフレディ。
ジム・ビーチがマネージメントも請け負うシーンもあり、史実は1978年。
映画はレコーディングのシーンからすれば1979年から1980年にかけてのエピソードをモチーフにしている。
Hot Space
アルバム『Hot Space』リリースに伴う、記者会見のシーン。
『Hot Space』は1982年5月のリリース。
前述したように、ロジャーのソロ・アルバム『Fun in Space』は1981年の4月。
それ以前にもロジャーは単発のシングルを1977年7月にリリースしている。
『Hot Space』にはデヴィッド・ボウイとの共演作「Under Pressure」やアルバム全体のファンクやディスコっぽいイメージと、クイーンとしては最も異質な問題作と位置付けられている。
史実としての時系列を追っていくと
- 1979年10月のシングル「Crazy Little Thing Called Love」がリリース(ジョン・レノンを音楽活動に戻すきっかけになったと言われている)
- 1980年6月、アルバム『The Game』リリース
- 1980年11月、ジョン・レノンが5年ぶりのアルバム『Double Fantasy』をリリース
- 1980年12月8日 ジョン・レノンが殺害される
1982年リリースの『Hot Space』には2曲のジョン・レノンへの追悼曲が収められている。
つまり、フレディからしてみれば「自分が敬愛したジョン・レノンが、自分の曲によって音楽活動を再スタートさせたために殺されてしまった」と解釈できる時系列になっている。
クイーンは、1982年が終わるころから1983年の前半までグループとしての活動を休んでいる。ソロ・アルバム等の作成のため当初一年間休もうという話だったようだが、休止中もメンバーはよく会っていたようだ。
I Want To Break Free
I Want to Break Free - Wikipedia
訳詞:http://www5f.biglobe.ne.jp/~lerxst21/queen/works.html#breakfree
「I Want To Break Free」 (ブレイク・フリー 自由への旅立ち)は1984年2月にリリースされたアルバム『The Works』からの2枚目のシングル曲。シングルのリリースは1984年4月。作曲はジョン・ディーコン。
この曲はプロモーション・ビデオでメンバーが全員女装をし(いわゆるソープ・オペラの「コロネーション・ストリート」のパロディ)、中間部ではフレディがバレエの「牧神の午後」のニジンスキーに扮するなど、非常に話題になった。
映画ではこの女装のアイディアで、一部のテレビ局でビデオが放送禁止になりアメリカの聴衆を失ったなどの諍いの種として描かれるが、史実としてはその他にももう少し深刻な背景があった。
この曲の歌詞からメッセージ性を感じ取ったアパルトヘイトに反対する団体やアフリカの民族会議運動に参加している人々にとっては、文字通り自由を勝ち取るためのテーマソングになっていた。
1984年の10月に南アフリカのサンシティでライヴを行ったこと自体も物議をかもしたが、フレディはアンコールでこの曲を歌う際に、ビデオと同様の女装をして現れ、ときには衣装を持ち上げて作り物のバストを聴衆に見せるパフォーマンスを行った。
これに対して一部の聴衆は曲の威厳を損なうものだとして、ブーイング。
1985年1月の「Rock in Rio」でも同様の演出をし同様の反応があった。もっともこの後の曲でブラジル国旗をまとって登場したため、すぐに騒ぎは収まったようだ。
なお、時系列からすれば、ブライアンは1983年の10月にエディ・ヴァン・ヘイレンらとともに『Star Fleet Project』として、実質的なソロ・アルバムをリリース。
ロジャーが一部参加している。
1984年6月にはロジャーの2枚目のソロアルバム『Strange Frontier』をリリース。フレディ、ブライアン、ジョンがそれぞれ一部参加している。
Under Pressure
訳詞:http://www5f.biglobe.ne.jp/~lerxst21/queen/hotspace.html#underpressure
「Under Pressure」はクイーン&デヴィッド・ボウイ名義の曲。
この曲のリリース経緯は複雑で、当初クイーンにとって初のベスト・アルバムとなる『Greatest Hits』(1981年10月)がリリースされた際に、同時にシングルとして発売され、かつ『Greatest Hits』にも収録されていた。そののちに1982年5月リリースの『Hot Space』にも収録された。2018年現在では『Greatest Hits Ⅱ』に収録されている。
『Greatest Hits』は1981年のリリース当初、世界各国で収録曲が微妙に異なっていた。例えば日本盤には「Teo Torriatte」(手をとりあって)のシングル・バージョンが入っているなど。
曲の製作経緯は、1981年7月、クイーンが『Hot Space』のレコーディングをスイスで行っていた際に、ボウイがスタジオに遊びに来て、ジャム・セッションしているうちにアイディアが形になったものだという。
ロジャーはこの曲についてとても誇りに思っている。
Who Wants Live Forever
Who Wants to Live Forever - Wikipedia
訳詞:http://www5f.biglobe.ne.jp/~lerxst21/queen/magic.html#liveforever
1986年6月リリースのアルバム『A Kind Of Magic』からの曲。
つまり、時系列的にはLive Aidよりも後の曲で、映画の中ではフレディが自分の体の不調に気付き、診察を受け、鏡に向き合うシーンで流れる。
上記サイトから訳詞を一部引用する
僕たちに、残された時はない
僕たちに、残された場所はない
ともに築いてきた夢を支えてきたものは、
僕らの手をすり抜け、何処かへ行ってしまった永遠に生きたいと、誰が思うだろう
永遠に生きたいと、誰が望むというのだろう
ブライアンによるこの曲の歌詞は映画のシーンにぴったりだが、実はこの歌詞はフレディの病気とは全く関係がない。
この曲は映画「ハイランダー」のために作られた曲で
主人公は首をはねられない限り永遠の生命を持ち続ける設定で、全く老いていかない彼と、死んでいく妻との別れのシーンのためにブライアンが書き下ろしたもの。
Mr. Bad Guy / I Was Born To Love You
ソロ・アルバムのためにメンバーと仲たがいし、曲作りをするシーン。
後に「Mr. Bad Guy」として1985年4月にリリースされることになるこの作品の曲は、『Hot Space』(1982年)、『The Works』(1984年)のために作られた曲のうち、グループでは受け入れられなかった曲も含まれている。つまり曲の素材そのものは1981年には既にあったものが含まれる。
前述した通り、ソロ・アルバムを作るのか?!という映画上での他のメンバーからの反発は、実際にはなく、ロジャーは2枚、ブライアンはソロ・プロジェクトとして1枚、すでにリリースをしており、1983年のグループとしての休暇を利用して制作されたアルバムである。ただし、映画にあるようにCBSとの契約金は相当な額だったようだ。
満を持してのフレディのソロアルバムだったが、結果的にグループのものほど売れ行きが良くもなく、評価も飛びぬけてよいものではない。映画にあるようにスイスで雇ったミュージシャンへの失望もフレディにはあったようだ。
では、この時期にメンバー間の確執はなかったのかというとそうではなく、1983年に一年間の予定で休もうということになったのも、アルバム、ツアー、アルバム、ツアーとずっと働き詰めであったためにあまりにもメンバー間の距離が近くなりすぎて、少しのことで諍いが起きていたようだし、解散という文字もちらついた時期があったようだ。
1984年2月のサン・レモのバックステージでは、ブライアンとロジャーが壮絶なケンカをしたというエピソードも伝えられているし、1985年5月まで続いた日本公演(実質的に最後の日本公演になった)の後にも、グループとしてのモチベーションは上がらず、解散するのではないかと言われていた。
映画の中で活動再開の条件として「作曲クレジットを全員にする」というものがあったが、実際にはライヴ・エイド後のアルバム『A Kind Of Magic』でも、1曲を除いてメンバーの名前(共作もあり)になったままで、作曲者が「Queen」と統一表記されるようになったのはその次のアルバムである『The Miracle』(1989年リリース)からである。
つまり、実際には、ライヴ・エイド前に、フレディと他のメンバー間で曲のクレジットをめぐる取り決めをしなければいけないような軋轢はなかった。またフレディに対して不信感を持つなどもなく、単にグループとしての方向性が見えず雰囲気があまりよくない時期であった。
Live Aid
映画では、ライヴ・エイドのリハーサル中に、病気のために声が思うように出ないフレディが描かれ、メンバーたちに自分の病気について告白するシーンになる。
この映画を見た方の多くが言及しているが、このライヴ・エイドの前は、フレディは自身の病気に気づいていないし、おそらく感染もしていない。
喉の炎症はあったと伝えられているが、それは病気のせいではなく長年の酷使によるもので、まして喀血をしたという事実も伝わっていない。
フレディに対して診断が出たのは1987年と言われており、ライヴ・エイドの2年後である。メンバーがフレディから聞いたのはさらにその2年後、1989年である。
映画の演出や物語として「グループが険悪になり、フレディが病魔に侵され、歌に対する不安を抱える中、ライヴ・エイドで素晴らしいパフォーマンスをした」ということをクライマックスにすることは、史実とは全く違うが、致し方がないのかもしれない。
事実はもっとシンプルだ。
グループのモチベーションが上がらない中、これ以上ないほどのビッグステージを与えられ、クイーン自身がクイーンというのは何者なのかを気づく機会になったのがライヴ・エイドである。
その後の『A Kind Of Magic』(1986年)でも、映画のための曲作りという外的な刺激を伴ってアルバムづくりをし、1986年をもってツアーをやめ、さらに2年以上かけて『The Miracle』(1989年)ではQueenの作曲クレジットと顔をひとつに合成したジャケットで一体感を出したが、時期的にはこの結束こそがフレディの体調によるものだった。
3回にわたって書いたが、言いたかったことはこうだ。
ライヴ・エイドのクイーンは、ただただすごい。
「世界中にクイーンのすごさを思い知らせてやる」とばかりに、本人たちが気合を入れて臨んだ結果なのである。
そこには映画のようなメンバー間の契約条件も、フレディに対する他のメンバーとの軋轢も、フレディの体調も全く関係がない。