Racco

ウィキペディアのこととか。

映画『ボヘミアン・ラプソディ』を見終わった人へのガイドみたいなもの その1

映画を見てから読んでくださるほうが良いと思います。
ネタバレを多く含みます。

 初めに

映画のパンフレットにブライアン・メイ自身が

「これは伝記映画ではなく、硬い岩から掘り出されたような、純粋なアートだ。(中略)誰にとっても共感できるような物語として描かれている」

と書いている通り、宣伝文句や紹介のされ方はどうあれ、この映画はブライアンとしては伝記映画という位置づけではないようだ。


多くの批評で「史実と異なる部分がある」と書かれているが、野暮を承知で「史実、あるいは史実とされて伝えられていること」とこの映画の内容を比較してみようと思う。

 

コアなファンならずとも、クイーンに関しては一家言を持つ人々に取っては、いろいろ言いたいことが満載な映画だということはよくわかる。

ベスト・アルバムになんであの曲が入っていないのか、という思いに近い感情がこぼれ出すのもやむを得ない。それだけクイーンは多種多様な魅力があるということだ。

 

個人的には、『フレディが(若くして)45歳で亡くなったとしても、その出自や生い立ちやセクシュアリティや性格がどうであっても、クイーンの創り出した音楽そのものが偉大なのであって、死んで、伝説で、すごいってわけではない』というスタンスなので、映画ならではの演出や物語としての強調やクローズアップする部分は理解している。

 

あえて言うなら、フレディの生い立ちや出自やセクシュアリティを楽曲と結びつけて考えたり、分析したくなったりするのは、ひとりひとりのファンや批評家や映画のような作品にする時には仕方がないことで、恐らくフレディ自身からすれば『自分が何者であるかは関係ない、ただ楽しんでくれ』だと思う。

 

映画を見たあなた。

いくらあなたがクイーンに詳しくて、映画の設定やちょっとしたことに違和感を覚えたとしても、映画館の大きな音でさんざん聞いてきたクイーンの楽曲が流れてきただけで、胸の奥が熱くなったはず。

 

何よりも凄いのは、楽曲のちから。

 

さて。楽曲の素晴らしさはもちろんのこと、この映画の素晴らしさを踏まえたうえで、もうちょっとクイーンのことを知ろうと思ったときに、この文章が参考になればいいなと思う。

 

 

それでは  はじまりはじまり。

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20century Fox Fanfare

お馴染みの絵が映し出される。

f:id:RaccoWikipedia:20181120140148j:image

流れてくる曲はお馴染みだが、いつものオーケストラではなく、ブライアンによるレッド・スペシャルのサウンドで奏でられるギター・オーケストレーションによるバージョン。

Red Special - Wikipedia

ブライアンのギターによるイギリス国家『God Save the Queen』はこちら。

Queen - God Save The Queen [Instrumental] (Official Montage Video) - YouTube

『A Night At The Opera』(オペラ座の夜)のボヘミアン・ラプソディの後に収められている。

 

こういったスタジオでのギターの多重録音に使われていたアンプは『Deaky Amp』と呼ばれていた。

大学で電子工学を学んだジョン・ディーコンが作ったものだからである。

 Deacy Amp - Wikipedia

Somebody To Love

映画の本編はフレディが咳をしながら起き上がるシーンから始まる。

1985年のライヴ・エイドの朝という設定だ。

最初に流れる曲はクイーンの5枚目のアルバム『A Day At The Races』(華麗なるレース:1977年)のB面の1曲目に収録されている「Somebody To Love」(愛にすべてを)。1976年の暮れに先行シングル・カットされた曲である。

誰か、愛する人を見つけて欲しい・・

毎日、起きるたびに少しずつ、(心が)死んでいくような気分がする

(by Sarie)

訳詞:http://www5f.biglobe.ne.jp/~lerxst21/queen/race.html#Somebody

ビデオ:Queen - Somebody To Love (Official Video) - YouTube

映画の後半では、このライヴ・エイドの日に「愛する人を見つける」ストーリーになっていることと、咳をしている、つまり健康状態が思わしくないことを示していることから、冒頭のシーンにはこの曲が選ばれたのかもしれない。 

映画のストーリーは後半にこの日に戻るので、史実との比較は後述する。

 

ステージへと向かうシーンで入れ替わりで階段から降りてきて、右側にすれ違うのは、衣装から推測するにU2 である。

U2 - Bad (Live Aid 1985) - YouTube

U2は実際のライヴ・エイドではクイーンのふたつ前の出番だった。

 

Doing All Right

ブライアン・メイがインペリアル・カレッジの伝言板でバンド・メンバーの募集を掲示し、最初にティム・スタッフェル(ベース&ヴォーカル)、そしてロジャー・テイラーが加わったことでSmileは形になった。1968年のことである。

 

映画ではティムが脱退した日にフレディと出会っていることになっているが、史実としてはティムはフレディと同じイーリング・アート・カレッジに在学しており、むしろブライアンやロジャーよりも先にフレディと知り合っているようだ。フレディはSmileを気に入っており、いろいろなアイディアを出したり、励ましたりしていた。

 

近年になりメアリーとブライアンは旧知の中であるという話がブライアン本人から語られ、フレディはブライアンを介してメアリーと出会った。メアリー自身によれば1969年だったという。

 

同じ1969年。ティム、ブライアン、ロジャーの3人からなるSmileは、アメリカのみで発売されたシングルの2曲を含めトライデント・スタジオで少なくとも6曲のレコーディングをしており、

Smile - Gettin' Smile - Full album (Japanese Edition) - YouTube

1982年に日本で6曲入りLPが「Gettin' Smile」というタイトルで発売されている。

その中の1曲が「Doing All Right」(Doin' Allrightの表記もある)であり、この曲はのちにクイーンのファースト・アルバムにも収録される。

訳詞:http://www5f.biglobe.ne.jp/~lerxst21/queen/debutq.html#Doing

映画のサントラに入っている「Doing All Right」はこれが恐らく初出である。もともとあった音源をもとに作り直したようにも聞こえる。

 

1970年3月に、ティムはHumpy Bongに参加するためにSmileを脱退。
残されたブライアンとロジャーは4月からフレディと活動を始める。この頃からフレディ・マーキュリーを名乗り始める。

 

フレディがメアリーが勤める店BIBAに行くシーンでクリームの「Sunshine of Your Love」(サンシャイン・ラブ)が流れている。

Sunshine of Your Love - Wikipedia

Smileのころブライアンはクリームのギタリストであるエリック・クラプトンに強い影響を受けており、ドラマーの募集広告には「(クリームの)ジンジャー・ベイカーみたいなタイプのドラマー」と書いていた。前述の「Gettin' Smile」に収録されている「Blag」という、のちの「Brighton Rock」の原型ともいえる曲では、ロジャーはまさにジンジャー・ベイカーのようなアプローチでドラムをプレイしている。

 

Keep Yourself Alive

訳詞:http://www5f.biglobe.ne.jp/~lerxst21/queen/debutq.html#Keepalive

映画では、フレディとジョン・ディーコンが加わった形でのライブのシーンに続く。明示されていないがここではSmileとしてのステージという体裁だろうクイーンというバンド名についてメアリーとの会話があるのは次のシーンとなる。

 

実際には、クイーンというバンド名になったのは1970年の6月であり、その間ベーシストは何人か入れ替わり、フィットしたベーシストが見つかるまで苦労していた。ジョンは7人目ともいわれている(名前が判明しているベーシストはジョンの他に4名)。

 

1971年2月、既にクイーンと名乗って活動していたバンドにジョンが加入する。ディスコで共通の友人に紹介されたとも、クイーンと名乗って2度目のコンサートにジョンが観客としてきていたとも言われ、オーディションを経ての加入だった。

 

映画で演奏されている「Keep Yourself Alive」(炎のロックンロール)はクイーンのファーストアルバムの1曲目に収録されることになる曲で最初のシングル。

Keep Yourself Alive - Wikipedia

映画に使われている音源は、1974年3月のレインボー・シアターでのライヴのもの。

http://www.queenconcerts.com/inc/tickets/1974-03-31.jpg

映画で、フレディはマイクの扱いに四苦八苦している様子が見て取れるが、ブームスタンドのマイクのブーム部分だけを外して歌うパフォーマンスの誕生という意味合いのシーンだろうと思われる。

車が故障したシーン。このころはロジャーの地元であるTruroでライヴを行うことが多く「ロジャー・テイラー&クイーン」名義での開催もあったと伝えられている。PAが会場に到着したのが開始寸前だったというエピソードが載っている資料もあるが、いつ、どこでかは定かではない。実際に車が故障したことがあったのかもしれない。

 

映画では、車を売ってアルバム作成の費用にしようとフレディが持ち掛ける。
史実では1971年にデ・レーン・リー・スタジオで5曲入りのデモテープを制作(Keep Yourself Alive, The Night Comes Down,Great King Rat,Jesus,Liar)。1972年11月、トライデント・スタジオとの契約で誰も使っていない時間帯にスタジオを使い、アルバムのための曲がレコーディングされた。トライデントに曲の権利を渡す代わりに契約金をもらい、EMIとのレコード契約を得る。

 

The Seven Seas Of Rhye

レコーディングのシーンは「The Seven Seas Of Rhye」(輝ける7つの海)の制作現場となっている。実際には歌が入っているこの曲はセカンド・アルバム『Queen Ⅱ』(クイーン Ⅱ)に収録されており、ファースト・アルバム『Queen』(戦慄の王女)の段階では歌が入っていないバージョンである。

Seven Seas of Rhye - Wikipedia

訳詞:http://www5f.biglobe.ne.jp/~lerxst21/queen/queen2.html#Sevenseas

曲名を発売当初の形で正確に表記するならば、ファースト・アルバムのほうは「Seven Seas Of Rhye...」とレコードジャケットに記載されており、セカンド・アルバムでは「The Seven Seas Of Rhye」と記載されている。このことからこのシーンでは歌が入っているので「The」をつけた表記で曲名を示す。

タイトルに入っている「Rhye」という単語はフレディの造語で、架空の国の名前である。この単語は「Lily of the Valley」(谷間の百合)(『Sheer Heart Attack』収録)にも登場し”King of Rhye”と書かれていることから”王国”であることがわかる。

2012ごろから活動を始めたRhyeという名前のデュオ・グループがあるが、そこでは「ライ」とカタカナが振られている。

Rhye | Hostess Entertainment Unlimited

 

レコーディング・シーンでのアイディアの数々や完璧主義振りは、伝えられている話に近く、ジョンとともにミキサー卓の前に座っているのはロイ・トーマス・ベイカーだと思われる。

「変な学生バンド」というセリフがあるが、ブライアンとジョンは勉学を続けており、ロジャーとフレディは古着屋を続けていた。

フレディがクイーンのネーム・ロゴと、4人の星座を象ったマークをデザインしたのは1971年と伝えられている。
このあたり、クイーンと名付けた時期などは、映画と史実の時系列が大きく異なっている。

ベッドで「Bohemian Rhapsody」(ボヘミアン・ラプソディ)を逆さ向きで弾くシーンがあるが、このフレーズがこの時からあったかどうかは定かではない。

 

Lazing On A Sunday Afternoon

映画では「フレディ・マーキュリー」と改名してことを父親に告げるシーンで、ハッピー・バースデー・トゥー・ミーとピアノで弾いた後に「Lazing On A Sunday Afternoon」(うつろな日曜日)がワンフレーズ歌われる。

Lazing on a Sunday Afternoon - Wikipedia

4枚目のアルバム『A Night At The Opera』(オペラ座の夜)の2曲目に収録されている曲。
訳詞:http://www5f.biglobe.ne.jp/~lerxst21/queen/opera.html#Lazysunday

この曲はサウンドトラックに入っていないので、トリビアを書いておく。

 

クイーンの曲と呼べる作品(フラッシュ・ゴードンの収録曲や、メイド・イン・ヘヴンのyeahなどを除く)の中では最も短い曲のひとつで、サード・アルバム『Sheer Heart Attack』(シアー・ハート・アタック)に収録されている「Dear Friends」とほぼ同じくらいの1分07秒である。

 

曲調はボードビルであり、フレディにとってのさまざまな音楽的ルーツのひとつが表れている。

初期には「Bring Back That Leroy Brown」(『Sheer Heart Attack』)や「Seaside Rendezvous」(『A Night At The Opera』)など、どこかコミカルなテイストの曲がいくつか入っていた。

Seaside Rendezvous - Wikipedia

 

オリジナル音源をよく聞くと、ピアノのイントロの2小節めの後、レコーディングのテープをカットして繋いであることがわかり、元々のイントロはもう少し長かった可能性がある。

この曲の歌詞は1週間形式で、水曜日に自転車に乗っていることから、自転車のベルの音が入っている。つまり「クイーンの曲で、自転車のベルの音が入っている曲と言えば・・・Bicycle Raceともう一曲は何でしょう?」というクイズが出せる。

 

・・・さて、映画ではこのシーンでEMIからの電話でジョン・リードとのマネジメント契約にこぎつけてめでたくデビューとなる。

 

実際にはだいぶ後の1975年の8月にリードとの契約がされている。史実ではトライデントとの契約がなかなか解消ができず、サード・アルバムである『Sheer Heart Attack』まではその契約から、バンドにほとんど金が入ってこない状態が続いた。ジョンもブライアンもこの頃までは学校の先生としても稼いでいたという。

 

同アルバム収録の「Flick Of The Wrist」はその契約の酷さと苦悩と恨みについて歌ったものであり、

Flick of the Wrist - Wikipedia

訳詞:http://www5f.biglobe.ne.jp/~lerxst21/queen/sheer.html#Flick

「A Night At The Opera」に収録された「Death On Two Legs (Dedicated to...)」も同様だと言われている。

Death on Two Legs (Dedicated to...) - Wikipedia

訳詞:http://www5f.biglobe.ne.jp/~lerxst21/queen/opera.html#Deathon

おそらく、トライデントとのことは映画に含めたくなかったのだろうと思われる。

 

Killer Queen

イギリスの音楽番組『Top of the Pops』の出演シーンへと映画は進む。

演奏される曲は『Killer Queen』。

Killer Queen - Wikipedia

訳詞:http://www5f.biglobe.ne.jp/~lerxst21/queen/sheer.html#Killerq

後にブライアン・メイが『この曲がターニングポイントだった』と発言している曲であ

る。

映画では初めての出演で口パクであることに戸惑っている様子が描かれている。フレディの衣装や使っている楽器からすると、1974年の12月27日出演時の様子を参考にしていると思われる。

 

史実としては、この時の『Killer Queen』がTop of the Popsの初出演ではなく、それ以前にクイーンは1974年2月21日に『The Seven Seas of Rhye』で出演している。

 

この頃はテレビ出演が多いのだが、口パク(mimedと表現されることもある)によるものがほとんどで、普段使わない楽器を演奏している振りをしていることが、資料的価値として残っている。ブライアンはフェンダーストラトキャスター、ジョンはフェンダージャズ・ベースリッケンバッカーなどを使用している画像が残っている。また初期のツアーではブライアンがレス・ポールを使っている画像もある。

 

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Fat Bottomed Girls

映画での次のシーンは、メアリーにフレディがプロポーズするシーンである。
メアリー自身が語ったことによれば1973年にフレディはメアリーにプロポーズしている。正式な結婚という形にはならなかったが、フレディはそう望んでいたことは確かなようだ。

バンドのメンバーたちがぶしつけにフレディの家に乱入し、アメリカ・ツアーが決まったと告げる。映画の構成上しかたがなかったかもしれないが、クイーンというバンドにおいてメンバーの誰かが知らないうちに、(たとえ電話に出なかったとしても)ましてフレディ抜きでツアーが決定することはないであろうし、他の3人のメンバーがどやどやと部屋に入ってくることも恐らくしないように思うので、このシーンは少し違和感があるが、とにかくアメリカ・ツアーに話は続く。

実際のクイーンは1974年の4月から5月にかけて初のアメリカ・ツアーを行う。とはいってもヘッドライナーや単独ではなく、モット・ザ・フープルのオープニング・アクトとしてのものだった。

モット・ザ・フープルはイギリスのバンドで、1972年にデビット・ボウイが作曲した『All The Young Dudes』(すべての若き野郎ども)をヒットさせた。

All the Young Dudes - Wikipedia
この曲は1992年の「フレディ・マーキュリー追悼コンサート」において、ブライアン、ロジャー、ジョンの3人と、作曲者のデヴィッド・ボウイモット・ザ・フープルのメンバーだったイアン・ハンターとミック・ロンソン、デフ・レパードのフィル・コリン、ジョー・エリオットらによって演奏されている。

さて、アメリカ・ツアーのシーンでは「Fat Bottomed Girls」が流れている。

訳詞:http://www5f.biglobe.ne.jp/~lerxst21/queen/jazz.html#Fatbottomed

Fat Bottomed Girls - Wikipedia


この曲はアルバム単位では1978年発売の『Jazz』に収録されている曲で、クイーンが実際のこの曲をアメリカではじめて演奏したのは1978年の10月28日のダラス公演でのことである。
映画では1974年ごろのことを描いているので、実に4年ほどの時系列の開きがあるが、歌詞の内容がツアー・ソングであることによるものと思われる。

この曲についてのトリビア

キーがDであり、ツアーで演奏するときは6弦をEからDに落とす、ドロップDチューニングを使用する。クイーンの曲の中でドロップDを使用する曲は「The Prophet's Song」(予言者の歌)や「White Man」がある。
映画に使われているバージョンは1979年2月27日のパリでのライブ・バージョン。2月27日から3月1日までの三日間のライブはすべて録画されたが、正式発売には至っていない。動画としてYouTubeで閲覧できるのは、サウンドトラックに収録された日のものではない。

Queen Live In Paris 1979 Fat Bottomed Girls.mpg - YouTube

0:21あたりをよく聴いてみて欲しい。6弦をEからDに落としてチューニングしているのがわかる。

この曲は「Bicycle Race」とともに両A面シングルとしてリリースされた。 

2002年にキリンジがアルバム「Omnibus」でカバーしており、個人的にはとても秀逸なカバーであると思う。

Fat Bottomed Girls キリンジ - YouTube

ここまでのまとめ

映画の時系列
  • Smileからティム脱退
  • フレディとメアリーが出会う
  • ブライアン、ロジャーとフレディが出会う
  • ジョンを加えた4人でライヴを行う
  • 車を売った金でレコーディングを行う
  • 「The Seven Seas Of Rhye」のレコーディング中にEMIのA&Rが来る
  • フレディがロゴをデザイン。クイーンと名付ける
  • ジョン・リードとマネジメント契約
  • Top of the Popsに「Killer Queen」で初出演
  • 初のアメリカ・ツアーで「Fat Bottomed Girls」を演奏

 

史実とされている時系列
  • ティムとフレディ知り合う
  • Smileとフレディが知り合う
  • フレディとメアリーが出会う
  • Smileからティム脱退
  • フレディとブライアンとロジャーとベーシストでSmile継続
  • クイーンにバンド名変更
  • ジョン加入
  • デモテープを作る
  • トライデントと契約
  • Top of the Popsに「The Seven Seas of Rhye」で初出演
  • 初のアメリカ・ツアーでは「Fat Bottomed Girls」は演奏されていない

 

ここまで長くなるとは思っていなかったので、気が向いたらその2へ続く

映画【Bohemian Rhapsody】を見た

映画のちょっとしたネタバレも含みます。

 

Live Aid」に関する文章をまず。
この映画の背景のひとつとして知っていると、ちょっと楽しみ方が増えるかもという知識。


Live Aid

 

 大人たちは訊ねた。 
 「どうしてこんなことをしたんだ」 
  (Tell me why)

 少女は答えた。 
 「月曜日が嫌いだから」 
  (I don't like Mondays) 

 

 

パンク・ロックのムーヴメントは様々なバンドを産み落とした。 
本来の意味での「パンク」はその存在自体が社会現象であったがために、その歌詞の内容も社会的なメッセージを含んだ物が多かった。 
反面、パンクのムーヴメントを利用して、本来はパンクを指向していないにもかかわらず、デビューを果たすバンドも多く、ポリスなどはその典型だった。 
もうひとつ、毛色の違うバンドが印象に残っている。 


 ブームタウン・ラッツ。 


彼らの最大のヒット曲「I Don't Like Mondays」は、アメリカで実際に起こったある事件にインスパイアされて書かれた曲で、ただ単に現代社会への不満などを歌うだけでなく、その事件そのものを歌詞に乗せたものだった。

その事件はこのようなものだった。 
アメリカに住む16歳の少女が、ある日父親のライフルを持ちだし、学校の校舎から校庭に向かって乱射した・・・・・・というもので、事件の内容も衝撃的で、銃社会であるアメリカの一断面を見せたものであったがために、その部分でも盛んに論議が行われた。 


しかし、事件そのもの以上に衝撃的だったのは「動機」だった。 
何故こんなことをしたのかという問いに、彼女は

「I DON'T LIKE MONDAYS」

と答えた。 つまり、楽しかった休日を、退屈な現実に引き戻す「月曜日」がなくなってしまえばいいと。

 

この事件に深い印象を持ったブームタウン・ラッツのヴォーカリストボブ・ゲルドフは「I Don't Like Mondays」という曲を書き、大ヒットを記録した。 もちろん楽曲的にも優れていた事は言うまでもない。

 

哀愁のマンデイ - Wikipedia

その後ブームタウン・ラッツは、日本で話題になるようなヒットは出ていない印象があった。 しかしボブ・ゲルドフは音楽で社会に貢献する事に主眼を置いたのか、「BAND AID」というプロジェクトをスタートさせた。 


エチオピア難民救済のために、1984年に当時のイギリスの主に若手のミュージシャンたち(カルチャー・クラブデュラン・デュランU2など)がボブ・ゲルドフのもとに集まり(ドラムはジェネシスフィル・コリンズが担当)「Do They Know It's Christmas?」という曲を発表した。 


この曲は当時イギリス音楽史上もっとも売れたシングル盤となり、その影響が飛び火してアメリカのアーティストたちも奮起し「USA FOR AFRICA」による「We Are The World」も発表された。

 

シングル盤の収益は難民救済のために寄付され、大きなプロジェクトを動かしさえすれば、音楽はまだまだ社会に対して影響力がある事が証明された事になる。 
その後、あらゆる形での「エイド・ブーム」が行われる事になるのも、すべてはこの「BAND AID」が発端であり、ボブ・ゲルドフは今では「SIR」の称号を受けている。

 

ボブ・ゲルドフは「BAND AID」というプロジェクトを単発で終らせはしなかった。 
有名ミュージシャンを一堂に会した「LIVE AID」の計画を実現させるべく、出演交渉を地道に行っていたのである。 
彼自身は「世界中すべての人々に通用するバンドはクイーン」だという強い意志を持って、クイーンとの交渉を続けていた。 
 

一方のクイーン。バンド内の雰囲気は相変わらず良くなかった。 
「チャリティー」と言うものに対しても、それまで散々参加してみたものの、思っていたような効果が出ていないのではないか、という猜疑心も多少あったがために、返事を伸ばし伸ばしにしていた。 


もちろん「サウンド・チェック」がないというのは大きな賭けであるし、20分間という持ち時間についても、話し合いは進められた。 
そして、クイーンが出した答えは「やってみよう」だった。 
 

1985年7月13日。ロンドン・ウェンブリー・スタジアムは7万人の観衆で埋め尽くされた。この日のためにリハーサルを3日間行ったクイーンは、ダイアー・ストレイツのステージの後、18:41にステージに姿を現した。 
フレディは堂々たるパフォーマンスで観客を惹き付けた。 
この日のフレディの喉の調子は信じられないほど良く、いつもならフェイクをして歌うような高いキーの部分も、出来るだけスタジオ・バージョンに忠実に歌っていた。 
 

 Bohemian Rhapsody 
 Radio Ga Ga 
 Hammer To Fall 
 Crazy Little Thing Called Love 
 We Will Rock You 
 We Are The Champions

 *Is This The World We Created

実際には20分では収まらなかっただろうが、クイーンのパフォーマンスは観客だけでなく他の出演アーティストたちからも絶賛を浴びた。 
誰もが「LIVE AID」のベスト・ステージは「クイーンだった」と口々に言い、誰もが「自分がクイーンを好きである」事を再確認した瞬間だった。 
クイーンのアルバムは飛ぶように売れはじめた。

メンバーたち自身も「音楽に携わってきて以来、これほど光栄な事はなかった。バンドとしての存在価値を確認できた」と言っているように「LIVE AID」はクイーンの集大成を、僅かな時間で魅せつけたものだった。

クイーンは後から考えれば、絶妙なタイミングで存続の危機を回避した。 

一歩ずつ、バンドとしての結束を固めていく方向に、再度向かっていくのである。 

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さて、ここからは映画「ボヘミアン・ラプソディ」を見た後に書いている。

感想

ざっくりとした映画の感想を一言でいうと、俳優さんが非常に頑張って敬意をもって役に取り組んでいることがよくわかる、素晴らしい映画だった。

現在もクイーンとして活動している、ブライアンとロジャーが監修しているだけあって(ギターのレクチャーも自らしていた、律儀なブライアン)、楽器を弾くシーンもステージもそれほど違和感がなく楽しめたし、本物に見えるカットもいくつかあった。

www.youtube.com

 

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特にすごいなと思ったのは、ブライアン・メイ役の方の話し方と声。全く違和感がなかった。

逆に違和感があったのは、この映画の評価には既によく書かれていることのようだが、時系列が事実と若干異なること。
細かいことはどうでもいいし、メンバー2人がこれでよいと言ってるのだから、それでいいのだと思う。

ちょっとした懸念を書くならば、かつて脱出王の異名をとった奇術師・ハリー・フーディーニの伝記映画であるトニー・カーティス主演の「魔術の恋」(1953年)は、映画という娯楽が非常に大きな影響を持っていた時代のものだけに、その映画の結末が、実際のフーディーニの死因であると勘違いされた時期が永らくあったという。

 

ちょっとずつマニアックなことを書いていく。


この映画に当てはめれば、例えばジョン・ディーコンがベーシストとして加入する前から「Queen」という名前でライヴを行っているし、「We Will Rock You」のレコーディング時(どんどんぱん)の時には、フレディにひげは生えていない。

でも、些末的なことであるし、それがどうした的なことである。

ウェインズ・ワールド

この映画では、「6分もある曲がラジオでかかるわけがない」とEMIのレイ・フォスターがいう。この人物は架空のキャラクターで、実際にはクイーンの関係者のレイなる人物はいない。

しかし注目してほしいのはこの役を演じている役者である。

マイク・マイヤーズ

映画「ウェインズ・ワールド」(1992年)で車の中で「ボヘミアン・ラプソディ」をキレッキレで歌う人物こそがマイクである。

www.youtube.com

 


サウンドトラック・アルバムは、クイーンファンなら「買い」である。

20世紀FOXのテーマ(20th Century Fox Fanfare)はブライアンのギターによる多重録音であり、クイーンのファンならばまずここでニコっとしてしまう演出。

フレディばかりがクローズアップされることが多いが、デビュー当初のクイーンではブライアンのギター・プレイと音色が大きな注目を集めていた。それは後期になっても特徴として表れていた。
たとえば。

youtu.be

Anyway the wind blows...のあとのバンドサウンドによる「ジャーン」の塊は、クイーンならではのサウンドであり、特にブライアンのギターのサウンドによって特徴づけられている。

この1曲だけで買いである、と言いたいところだけれども、
サウンドトラックについてもう少し情報を見てみよう。

ボヘミアン・ラプソディ (オリジナル・サウンドトラック) - Wikipedia

このトラックリストを見て何か気づかないだろうか。
ライブ・バージョンで音声トラックとして初出のものもあるが、いわゆるスタジオ・バージョンでこれまでにリリースされたことがない、もっと言えば聞いたことがないバージョンが2曲入っていて、このサウンドトラック・アルバム以外では手に入らない。

そのうちの1曲は、Smileによる「Doing All Right (...Revisited)」。

既出のSmileの音源とは異なるバージョンである。Smileの曲ではあるが、Queenのファーストアルバムに入っている曲でもあり、ロジャーがリードヴォーカルの部分もある曲。

もう1曲は「"Don't Stop Me Now... Revisited" (previously unreleased)」。

これは従来リリースされているアルバム「Jazz」のバージョンとも違うし、ボーナストラックとして「Jazz」に収録されていることがある”with long-lost guitars”バージョンとも異なる。
最大の特徴は「Jazz」のバージョンではギター・ソロまでギターは全く入ってこないが、サウンドトラック・バージョンではリズムインのところからギターが入ってゴージャスな仕上がりとなっている。

この2曲はプロデュースのクレジットから察するに、この映画のためにアレンジしなおし、適宜レコーディング技術でトラックの追加などを行っているようだ。
少なくとも、ボーカルは「Jazz」のオリジナルバージョンのものだがエコーが深くかけられ、ギターは後からオーバーダビングされたもの。ドラム、特にスネアの音が異なる。

 

Bohemian Rhapsodyのノイズ

さて、この映画のタイトルにもなっている「Bohemian Rhapsody」。

この曲についてはいろいろな方が分析し、評価し、感想を述べているので、あまり触れられていないことを書いておく。

CDでも音声ファイルでもなんでもいい。あなたの持っている「Bohemian Rhapsody」の音源を注意深く聞いてみて欲しい。

 

2:10あたりの「Goodbye everybody-」の直後ドラムの音に合わせて左チャンネルからバリッバリッと2回のノイズが聞こえないだろうか。

YouTubeで聴けるスタジオ・バージョンの「Bohemian Rhapsody」のほぼすべては、このノイズが入っている。

私の手元には「Bohemian Rhapsody」のスタジオ・バージョンが入っているCDが8枚あったので、それらすべてを確認してみた。

2005-11-22 "A Night At The Opera" 30th AnniversaryEdition TOCP-67844
2002 "Gold" EKPD-0073
2002 "A Night At The Opera" DVD-Audio 7243 539830 9 3,
2001-11-21 Queen Greatest Hits TOCP- 65861
2000-06-28 Queen in Vision
2000 "A Night At The Opera" DCC Compact Classics 24kt Gold GZS-1144
1998-11-18 Queen Greatest Karaoke Hits Featuring The Original Queen Hit Recordings TOCP-65061-62
1991 "A Night At The Opera" Hollywood Records reissue HR-61065-2

 

この中で当該ノイズが入っていないのは、Karaoke Hitsだけである。これはカラオケながらクイーンのスタジオ音源を使用しているので(ミックスも幾分異なる)、ノイズだけをこのための取り除くとは考えにくい。
これら以前のアナログ盤を確認できていないものの、おそらくアナログからCD時代に移行する頃に、マスターテープにノイズが乗ってしまったのだろうと思う。

 

フレディの声域

映画の中では、声の調子が良くないフレディがLive Aidに臨むという流れになっているが、実際には上記したように20分間のライブを行うために3日間の入念なリハーサルを行っている。

www.youtube.com

このリハーサルの動画を見る限り、フレディの声の調子は良い。

調子を取り戻したというよりも、長い長いツアーで連日のように2時間を超えるコンサートを行ってきたクイーンが、20分の一発勝負のライブをやるにあたって、先のことを考えずにセーブする必要がなかったということも大きな要因である。

この映画のLive Aidのシーンには、実際の当日のクイーンによる演奏が使われている。


Bohemian Rhapsody

Mama, life had just begun,
But now I've gone and thrown it all away.

のnow I've goneはB♭の高さで、スタジオ・バージョンではファルセット、多くのライブではGの高さでフェイクをして歌っている音である。

 

Hammer To Fallの

You don't waste no time at all

 は、Aまで上がっており、Bohemian Rhapsodyよりは半音低いが、これも多くのライブではフェイクしている音である。

 

Radio Ga Gaでは

You had your time, you had the power

は、B♭まで上がる。多くのライブではオクターブ下で歌い、ロジャーがB♭で歌うことによって補われている。

Live Aidの最後の曲、We Are the Championsでは一番だけだが

And we'll keep on fighting 'til the end.

のfightingの音はさらに高いCである。スタジオ・バージョンではファルセットで歌われ、多くのライブではフェイクで歌われる。

 

これらの高さの音が、すべてLive Aidでは、出ているのだ。
つまり、絶好調なのである。

先を考えずにリミッターを外していいライブだったということでもある。

Live Aidでは実際にHammer To Fallにおいて、声が裏返って聞こえる箇所があるが、フレディはライブにおいて、Aの音をフェイクせずにどこまでスムーズに出せるかどうか、実は試していたのではないか。

そんな風に考える根拠はこれ。

www.youtube.com

サウンドトラック・アルバムにも「Ay-Oh (Live Aid)」というトラック名で入っている、フレディならではのこの観客との掛け合い。

ひと際、声を長く伸ばして、力強く右手のこぶしを掲げるときの音が、Aなのだ。



そんなわけで、私はクイーンのファンなのである。

 

 

【田中未知さんとお話をした】

ここまでの長いおさらい。

 このブログでは4回にわたって経緯を書いてきた。

第2回wikipediaブンガク in 神奈川近代文学館
高尾霊園を訪れる
【快挙!】

【とても素敵な出会い】


さて、ちゃんと記録を追っていくと、7/22にメッセンジャーで「Wikipediaブンガク」の打ち合わせを田子さんとしている時に、神奈川近代文学館での『寺山修司展』の編集委員の一人である『田中未知』さんの名前が挙がった。

 

もう少し細かく言うと、編集イベントを行うにあたり、寺山修司関連で
「記事があっても良いのに作られていないもの」
「記事はあるが内容が薄いもの」
「出典があまりついていないもの」
など、2人で打ち合わせる中で、田子さんが「記事があっても良いのに作られていないもの」候補として『田中未知』を挙げた。


他の編集委員である、三浦雅士祖父江慎の記事は、すでにウィキペディアにあった。

 

私は寺山修司の仕事の方に心を奪われていて『毛皮のマリー』は書かれていてしかるべきだと考えていて、展覧会に携わっている人物には無関心だった。

 

9/30の、田子さんとの現地での事前打ち合わせの時、神奈川近代文学館の藤野さんが『イベント前日の10/7(日)には朗読とトークショーのイベントがあって、俳優の三上博史さんと、田中未知さんがお見えになります』と教えてくれた。

藤野さんは『田中さんは、寺山が亡くなるまで公私にわたるパートナーだった』と教えてくれた。

 

家に帰って、イベント用のスライドに新規作成対象として、私は『田中未知』を加えた。

 

イベント当日。

自由に編集しても、新規作成しても、加筆しても、出典補完しても、なんでもOK。それぞれやりたいことを選んで構わない。と私は参加者の皆さんに話した。その際の対象の大まかなリストをスライドに映した。そのあと展覧会を見てもらって、編集となる。

 

さえぼーさんの到着を館外で待って、入場券を渡して、展覧会の会場に進んだ。
周りの迷惑にならないように、さえぼーさんをいろんな人に紹介していると、ちょうど部屋と部屋の間の通路に、のりまきさん、伊達さん、逃亡者さんなどが集まるでもなく集まっていた。
壁に貼られた展覧会の解説リストを眺めながら、逃亡者さんは「今日何を書こうか」と考えていた。

 

『田中未知』にしようかな。でも、人物は難しいんだよな、とか言っていたと思う。
そこで私は先日身につけた知識を得意気に披露した。この方は寺山修司のマネージャー的な存在であり、公私にわたるパートナーで、ご存命であること。昨日この館でトークショーと朗読のイベントで来ていたこと。

 

逃亡者さんは存命であることを知ると、少し迷ったように見えた。
ウィキペディアでは存命人物の記事はセンシティブで難しいと、ベテラン編集者なら思うだろう。

 

逃亡者さんの心の中で何が動いたのかわからないが、結果的に逃亡者さんは新規記事作成対象として『田中未知』を選んだ。

 

ここからは少し駆け足で記す。

イベント後に私は寺山修司の墓を訪ね、戒名が彫られているのを確認した。墓や戒名はないと記された資料があり生前の寺山もそう言っていたそうだ。

この日『寺山修司展はとても素敵だ』という旨のツイートをしたところ、田中未知さん本人にリツイートされた。
私は寺山修司関連の疑問点がある、とりわけ戒名のことを知りたいと田中未知さんにダイレクトメッセージを送った。
作成された『田中未知』の記事は新着記事に選ばれた。

 

ここまでがおさらい。

ここからが続き。

******************

そして、実際に田中未知さんにお目にかかってお話を聞くことになった。

 

Twitterで相互フォローをさせて頂き、ダイレクトメッセージで何度かやり取りを繰り返した。田中さんはこの形で色々答えることにどうも乗り気でないようだった。何度かのやり取りのあと『11/3に神奈川近代文学館で映画の上演会とトークショーがあるから、そのあと15:30くらいからなら』ということになった。

 

私はイベントの主催者である田子さんにこの話をし、神奈川近代文学館の藤野さんに話を通さなければと思った。幸いにも藤野さんはとても親切にして下さり、映画のチケットまで確保してくださった。
上演される映画は寺山修司監督の『草迷宮』と田中未知監督の『質問』。

 

『質問』という映画はとても短い作品で、田中さんが投げかける(声は別の方)質問に寺山修司が答えると言うだけの構成になっている。

 

「行く道と帰り道とどちらが好きですか」

――「好き嫌いを問わず、帰り道っていうのを通ったことは一度もない。生まれてからずーっと行きっぱなしだという、そういう風に思っています」(寺山修司)(『質問』より)

 

 

こういった質問に淡々と、鋭く、おどけて、答える寺山修司の姿を見ることができる。

『質問』というタイトルの著書もある。1ページにひとつずつの質問が書かれている本。田中未知という人はそういう人だ。

その人に質問をする機会を得た。
執筆者である逃亡者さんと、主催者の田子さんに、会えることになったと知らせるのはいいとして、第三者的にこの出来事を記録してくれる人がいたほうがいいと考えた。
文芸評論家・編集者である「マガジン航」の仲俣さんに連絡を取り、事情を話し、同行していただくことになった。

本来であれば「Wikipediaブンガク」に参加した方全員に事前にお話をして、というのが筋かと思ったのだが、失礼を承知で言えば田中さんは73歳で、オランダに在住の方がこの展覧会の期間中、日本に滞在していて、2本の映画の上映会のあと、1時間のトークイベントの進行役を務め、そのあとの著書のサイン会が終わってからの時間をいただくことになっているので、たくさんの人間が押しかけて会えなくなってしまうよりも、確実にお話を伺えることを優先して、4人で臨むことにした。

11/3。
映画を鑑賞し、仲俣さんは著書にサインをもらい、終わるのをロビーで待っていると、田中さんがお友達二人とこちらにやってきて「私ね、この方たち(つまりウィキペディアの連中)に話があるの」と言った。

私は少し面食らったが、少しでも長くお話しできる時間が欲しいととっさに思い「もしよろしければお友達お二人もご同席いただいて、お話を伺えればと思います」と言った。
ふたりのご友人は、昔からのお友達の画家の山崎泰子さんと、『質問』の編集を担当した梅森妙さん。
堅苦しく、質問攻めのような形になるよりも、和気あいあいと談笑をするようにお話ができたら、と私は考えた。

結局のところ、「ノー残業デー」の閉館時間が来るまで、1時間20分にわたってお話を聞くことができた。
お墓のこと、戒名のこと、天井桟敷での日々、田中さん自身の素養や経歴、寺山修司にまつわる巷間伝えられている事柄と事実の違い・・・。
ワグナーと名付けられた犬のこと。

 
この日のお話の内容は、もしかしたら仲俣さんの「マガジン航」に掲載されるかもしれない。

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不思議なことがいくつかあった。
仲俣さんが「寺山修司展に行きたい」とFacebookで書いていたこと。
私はそれを見て招待券をお送りしたこと。
(実はほとんど面識がない)
存命人物記事に躊躇していた逃亡者さんが、イベントの日まで存在すら知らなかった田中未知という人物の記事を書こうと思ったこと。
田子さんの図書館に、田中さんの著書である『質問』があったこと。
私が寺山修司のお墓参りに行った日に、田中さんが私のツイートをリツイートしたこと。


起きたことを後から手繰り寄せて「偶然」「導き」と表現するのは陳腐なことかもしれない。でも、田子さんは図書館で『質問』を見つけたときに「呼ばれている」と感じたという。

映画『質問』にはこんな質問があった。

数字に色はありますか?
ーー6は緑色。5は黄色。4は青。3は赤。2は黒。1は白。

地図にない島の名前を知っていますか?

ーーシルバーシャークテスコボーイノーザンテースト

 

 田子さんと私は、笑った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【とても素敵な出会い】

 

Wikipediaブンガクで逃亡者さんが新規作成した『田中未知』。
田中未知さんはご存命の人物で長年に渡り寺山修司の公私を支えてきた方です。
この展覧会でも9/30とWikipediaブンガクの前日の10/7にシンポジウムと朗読イベント(三上博史さんと一緒に)に来館されています。

どんな方なのかはそれこそ作成された記事を読んでいただくとわかります😃
https://ja.m.wikipedia.org/…/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E6%9C%AA%E7…

イベントとは別に、神奈川近代文学館寺山修司展は素敵だよと私は昨日の夕方にツイートしました。
https://twitter.com/racco_wiki/status/1050302484227342336

すると、リツイートしてくれた方がいました。『質問=田中未知』さんという方。

私は、とても興奮してカラダが熱をもっていくのを感じました。
直ぐに逃亡者さんと田子さんに連絡をし、状況を伝えました。

コンタクトとり、ひとつ『質問』をしました。お返事を頂くことが出来ました(!)

https://twitter.com/flyingsorami/status/1050360154728718337

田中未知さんご自身より、ウィキペディアに記載された情報の間違いを1箇所ご指摘頂き、逃亡者さんは田中未知さんにTwitterで相互フォローになり、大興奮。

田中未知さんが、寺山修司の記録や記念のものを手放すことをせず語り継がれるように保管していることは、とてもとても口幅ったいですけれど私たちがウィキペディアに記録として残していく行為にも近いのではないかと感じます。

シンポジウムに行っとけば良かったなあ😺

【快挙!】


先日のWikipediaブンガクで新規作成された「田中未知」と「毛皮のマリー」が新着記事として、約24時間ウィキペディア日本語版のメインページで紹介されています。

私が記憶している範囲で、ウィキペディア編集イベントで作成された新規作成記事が、2つ同時に新着記事になるのは、もしかして初ではないかと。

イベントに参加なさった皆さん、応援してくださった皆さん、そして主催者の田子さん、おめでとうございます!

高尾霊園を訪れる

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薄曇りの日は百科事典向きの写真を撮るにはいいらしい。影が一方向に出てしまうことなく撮れるからだそうだ。

 

高尾霊園は高尾駅から15分とされているが、20分は見たほうがいいだろう。今日は原付を使った。

 

http://www.takaoreien.com/koujyouji/

高尾霊園の公式サイトの園内マップでは、寺山修司の墓はA区に、忌野清志郎の墓はB区にある。

 

言われていたように、本が載せられたデザイン。粟津潔によるもの。

青銅と思われる扉の柱には犬が左右に配置されている。

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ばかばかしいと思われるかもしれないが、ひとけのない墓地の中の青銅を扉のラッチを外して中に入ると、私は深々と頭を下げて、声に出して自己紹介をした。

 

ウィキペディアというものをやってること、そのイベントであなたについて少し学んだこと、恐らくあなたの意志では戒名の必要はないということだったのだろうけど、それを確かめに来たこと、こんな理由で訪ねて申し訳ないという思いのこと。

 

 

 

先日のイベントで、寺山修司に対して特別な思い入れがあるという参加者は、ほとんどいなかった。

もちろん、寺山修司を知っている人ばかりだったが、詳しく知っているよという人も少なかった。

戯曲の代表作であり、何度も再演されている「毛皮のマリー」を見たことがある人も一人だけだった。

ウィキペディアの記事である「毛皮のマリー」のあらすじを書いた方は、物語の内容を知らないまま調べながら書いた。

 

こうしたことはもしかしたら冒涜であると思う人もいるかもしれない。

 

でも、記録していくこともまた、別の次元で大切なことだと思う。
少なくとも、自分の中にある疑問を解決するために訪れ、それを自分だけのものとせずに記しておくことは、誰かの役に立つことかもしれない。


花もなく、少し手入れから時間が経っている寺山の墓の、線香を置くスペースには、マッチの燃え殻が数本あった。

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第2回wikipediaブンガク in 神奈川近代文学館

イベント趣旨と流れ

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イベントの情景やら雰囲気は、たぶん田子さんが書いてくれると思うので、実務的なことを。

イベントページはここ

参加締切 第2回wikipediaブンガク in 神奈川近代文学館



参加者は23?24人?
このイベントの主催は学校司書の田子さん。個人が主催のイベントでこの人数は驚異的では。
内訳は、大学教員の方、司書の方、もうちょっとえらい図書館の方、出版の方、一般の方、Code for のかた、そしてウィキペディアン。
図書館関係者、それも学校図書館の方が多め。

田子さんに事前に、だいたいの参加者のクラスタを伺っていて、ウィキペディアの編集経験もうかがってイメージ。

このイベントのテーマは
ウィキペディア寺山修司関連の項目を充実させよう」。
主催者の田子さんのテーマには「神奈川近代文学館を応援しよう」もある。


神奈川近代文学館では、2018-09-29から11-25まで寺山修司の展覧会
特別展「寺山修司展 ひとりぼっちのあなたに」
が開かれている。

イベントのざっくりした流れは、

館の紹介、海獺によるイベントの説明、学芸員さんによる展覧会の説明。

展覧会観覧、館内で各自食事、午後の部スタート→編集→成果発表。

 

 

事前準備など


私は現状の寺山修司関連のウィキペディアでの状況を調べ、イベントで編集するにふさわしいテーマを選んで、田子さんに送る、というようなことを何度か。

通常、ウィキペディアタウンなどの、ウィキペディア編集イベントでは、編集対象をいくつか決める。

その数はグループ数に比例する感じで、1グループが3~6人くらいが適当か。つまり20人なら、4グループを作り、4つくらいの編集対象を用意して、割り振る。

ただし、グループの中で編集経験の差があると、メリットもデメリットも生じる。
イベント当日の中で、うまいこと編集経験者がフォローしてくれる時もあれば、初心者が気圧されたり、面食らったり、自分がやっていることが何かわからないまま結果だけが出たり。

参加者誰もが楽しく充実した時間を、頭に汗をかきながら過ごしてもらうにはどうしたらいいかということで、私はゆるーく提案。

  • 俺は好きにやるぜ
  • 記事を新規作成するよ
  • セクションを新規作成するよ
  • 既存の記事の内容が薄いから加筆するよ
  • 既存の記事の記述に出典をつけるよ

つまり、今日は何をやってもいいよ。やりたいことをやっていいんだよという提案


その上で、編集対象を提示。

まず、寺山修司作品で記事がないもの。新規作成対象。

  • さらば箱舟
  • 毛皮のマリー
  • 田中未知
  • 忘れた領分
  • はだしの恋唄
  • われに五月を

 

次に寺山修司の記事の中の加筆対象。セクションを新設したり、まとめたり。

  • 展覧会、賞、建造物
  • ボクシング
  • 人物像
  • 評価

そして、寺山修司関連の記事の加筆対象。

最後に、既存の寺山修司関連の記事の中で、出典がついていない箇所を私が52か所あらかじめピックアップして、編集初心者の方がウィキペディアの記法と成り立ちを、出典をつける作業で学んでみるコースも用意。

  • ♣9 朝日新聞に詩『懐かしのわが家』を発表。
  • ♣10 パリで「天井桟敷」最後の海外公演を行い、『奴婢訓』を上演。
  • ♣J  肝硬変を発症し阿佐ヶ谷の河北総合病院に入院。その後腹膜炎を併発し、5月4日に敗血症のため死去。
  • ♣Q 葬儀委員長は谷川俊太郎


などなど。

 

参加者はリストから、出典をつけたい、あるいは出典をつけるための資料がありそうな課題を選ぶか、トランプを引いてランダムに課題を決定するかで、取り組む。

ベテランウィキペディアンで執筆したい人は、私が想定した課題から選んで編集してもいいし、寺山修司関連ならば自由に編集してもOK。

ここまで私の説明が10分くらい。
近代文学館に関する説明が10分くらい。
学芸員さんによる展覧会の説明が20分くらい。
予定よりもだいぶ早く予定が進む。
イベントは前倒しにできるときはしたほうが安心。

展覧会を鑑賞し、寺山修司ワールドを堪能し、イメージを膨らませたあと、
私はざっくりとグループを3つに分ける。
編集経験で、ベテラン、中級、初心者。
「私は初心者でーす」の中から、「さあ、こっちにくるんだ」と二人を引っ張り、私が個人的に「この記事がないのはまずいだろ」と思っていた「毛皮のマリー」を四人グループで新規作成してくださいとお願いした。

参加したウィキペディアンのうち、Nさんはじぶんが書きたいところを書く。Tさんは「田中未知」(晩年の寺山の公私ともにのパートナーで、マネージャー。存命人物)を書くと決めたよう。

ウィキペディアンAさんは技術的な部分で、アカウント作成フォロー、撮影など、体調が万全でない中頑張ってくれた。

Dさんは長旅の疲れも見せず、困っている参加者をやさしくフォロー。

Sさんは、ちょっと遅れて参加。ご自身の大学の図書館で資料を借りてからの参加。報酬のプリンだっ!

TさんとEさんはマイペースにいろいろ気づいたところを淡々と。いつも仲良し。

残り10人ほどが初心者コースで、午後いちにとても基本的な編集のやり方や方針をこのグループだけにレクチャー。10分くらい? 
最低限の説明と配布資料だけで、出典をつけましょう!がスタート。
それぞれ、文献発見が困難な課題、既存の文章自体が怪しい課題、簡単な課題を前にして、進捗も様々ですが、早めに終わった人は文章の加筆にも進む。Dさんによる助言のおかげで「みんな絶対にどんどん書けるから、出典付けるだけの作業はもったいない!」ということで、どんどんやりたいことを自由に選ぶながれに。

反省点がひとつ。難しい課題を選んでしまったら、パスしてもよいのだ、他のを選んでもよいのだ、とアナウンスするのをちゃんと伝えきれておらず、なかなか進まない方も。


イベントの成果

f:id:RaccoWikipedia:20181010135013j:image

 意識してもらったこと

大事なのは楽しむこと。出来上がりは二の次。プロセスを楽しんで。

ずっと質疑応答タイム。疑問はその場で解消。

図書館関係者が編集初心者の大半を占めることから「ご自身の環境でこういったウィキペディア編集イベントをする場合はどういうやり方があるか。どういう成果が得られるかをイメージ」しながら取り組んで。

重要なのは地の文を書く、出典を添える。今日できることを優先。お体裁は後からでもできるし、妖精さんがやってくれる。

閲覧者のために書く。出典に迷ったら、答えはそこにある。情報を提示することで読者の助けになるのは?

意識したこと

編集に入る前には・・・
百科事典とは何か、
ウィキペディアの歴史、理念、規模、運営などはほとんど説明せず。
海獺って何者?についてもほとんど説明せず。実績も。
ウィキペディアタウンなどのこれまでの成果、歴史、
オープンアクセス、データ、ソフトウェアなどの説明なし。
ライセンスの話もなし。

最低限の編集方針と記法、版が重なっていくこと、自分では削除ができないことだけを説明し、まずは編集に取り組んでもらう。

編集後、今日やったことはどういうことなのか、なんの役に立つのか、どう生かしていけるのか、どんな広がりがあるのか、何を意識したのか、何を学んだのかを、海獺なりに言語化して、振り返りの時間に、ひとつひとつ再認識してもらう。
(先日、豊田館長に褒められたスライドをまた使ってみた)

ここ数年、ウィキペディアの編集イベントに携わってみて、編集の面白さ、編集やウィキペディア対する理解、などなどそれなりに伝えてこれたとは思うが、参加者の参加目的にアジャストできるように、イメージしやすいように、意識してもらいながら進めていくほうが良いのではないかと思うに至り、とにかく先に編集ってものを体験してもらって、それはどういうことなのかという風に順番を逆にしたほうが、ジブンゴトとして意識ができやすいのではないかと思っている。


クルマの運転をしてみたい人は、最初に内燃機関の原理を聞きたいわけではないのだ。